ただ愛で在る

被虐待経験から究極の愛を学びました。善悪を超えたあらゆる愛について、気づいたことをありのままに綴ります。

もう嘘はつかない

私は長いこと自分の話をすることが大の苦手でした。
なぜならたくさんの嘘をつかなければならなかったからです。

ありのままの自分を明かせば、仲良くなりたい相手が私を恐れて離れて行ってしまうのでないかという恐怖が常にありましたから、相手を怖がらせないよう驚かせないように、当たり障りのないことを最小限だけ伝えてやり過ごしてきました。

そんな時はいつも、また嘘をついてしまった罪悪感と、本当のことを言えない悲しみが心を埋め尽くしました。

この人生で、他者との感覚の違いに気づき、初めて嘘を意識したきっかけは新生児の頃です。

母が、彼女の友人に産まれたばかりの娘を見せながら、娘の排泄や滑稽な動きについて話していました。
それを私は母の腕の中で、ただただ恥ずかしく感じながら聞いていました。

なぜこの女性に私の排泄などの話をしているの?
私がここで聞いているというのに!?やめて!!

話が止まないならせめてこの場から離れたいと思い、全力で移動を試みましたが身体が異常なほどに重く、全く思うように動きません!
このような感じです…麻酔を打たれて身体にはほとんど力が入らないというのに意識だけは明瞭で、ただそれを伝える術がなく、周りの人はそのことに気づいてくれず、こちらを見て笑っており、されるがままになるしかない状況を想像してください。
最後は移動も諦め、混乱していたたまれない気持ちのまま母の腕の中にいるしか術がありませんでした。

あらためて彼女らの様子を見ると、まるで私がここにいないかのように私の話をしています。
しかし彼女らは何度も私に微笑みかけ、じっとこちらを見つめたり手や足にも触れてきます。

そこで気づきました。

彼女たちは、この会話を私が理解できないと思っているのだと。


その日から、聞いて嬉しいことも嫌なことも、まるで何も聞こえていないかのように振る舞いました。
これは想像以上につらいことです。
自分が本当に何一つ理解できなければどんなにいいかと感じました。

せめて、どなたかが、一度でも
「あなたは私の話していることが分かる?」
と尋ねてくれたなら。
まだ言葉は話せなくても、閉じこめられたように身体が動かせなくても、何とかして「はい!」と伝えたのに…。


その頃は、自分のいる世界(家の中のこと)のあらゆるものが荒々しく感じられ、不快な刺激が多すぎました。

テレビやラジオから発せられるあらゆるもの、家中をひっきりなしに飛び交う目ざわり耳ざわりな電波、トイレの水洗音、洗濯機や掃除機など家電の騒音、電話……
自然のものから切り離された人工物ばかりに囲まれた不自然な空間は、とにかく異様で全くくつろげませんでした。

そんな中で唯一落ち着けたのは、母が好んで聴いていた、レコードから流れるクラシック音楽だけでした。


そんなままならない新生児〜赤ちゃん時代にも、飛び抜けてステキなことが2つありました。

1つは新生児の頃、ひ孫と初対面した曽祖父に抱っこされた時のことです。
彼からの言葉はありませんでしたが、慈愛に満ち溢れて温かく優しい彼の魂が、心細くてたまらない私の魂を包みこんでくれたように感じました。
誕生以来、初めて安心できた瞬間です!
嬉しくて懐かしくて涙が溢れました。(実際にこの時私は大泣きしたと後に母から聞かされました。)
このままいつまでも彼に抱かれていたいと強く願いました。

高齢だった曽祖父は、その後まもなくして入院し数年後亡くなったので、彼に抱かれたのはその一度きりですが、今でもあの時の絶対的な安心感を忘れることはありません。


2つ目は弟の誕生です。
私は1歳半になっていました。
私と違う浅黒い肌の色、あたたかく柔らかい身体、ぷくぷくとした手足、透明な優しい瞳、あどけない仕草、可愛らしい声…彼の何もかもに夢中になりました。
これほどまでに愛しい存在がいるのか!と心底驚き、自分をこんな気持ちにさせてくれた弟が大切で可愛くてたまりませんでした。
彼を見つめていると、愛しさで胸がいっぱいになり涙が溢れました。
そして今後どんな嫌なことからも、私が守ってあげようと心に決めました。


ここまでを読んで、あなたはどう感じられますか。

新生児が日本語を理解できるはずがない?
新生児に恥ずかしいという感情があるはずもない?
新生児が一度きりの抱擁を覚えているはずがない?
一歳半の赤ん坊にそんな理性があるはずはない?

それとも…♪
私も同じ!!と喜んでいらっしゃいますか?


私の体験と、一般的に認識されている情報、あるいはあなた自身の体験や記憶とはあまりに違いますか?
私はその時に自分が着ていた服の詳細まで覚えており、母に確認したため、それが新生児の頃であったと符合しました。

これを信じて欲しいとは申しません。
私自身、なぜ同じようなお仲間に出会えないのだろうと常に心細く思い、ついには私の記憶ちがいか幻想だったのかと疑ったことさえあります。
人に信じてもらえないことよりも、自分を信じられなくなることは最も悲しいことです。

ここに書いたことは、これまでずっと誰にも信じてもらえないだろうと諦め、誰にも明かさずに嘘ばかりついてきた私の真実です。
これからの人生、もう嘘をつくのはやめました。


また少しずつ私の体験を分かち合いますね。
私を信じてくださるあなたに心から感謝します。

今日も読んでくださってありがとう。