ただ愛で在る

被虐待経験から究極の愛を学びました。善悪を超えたあらゆる愛について、気づいたことをありのままに綴ります。

比べっこしたい?

私は、競争心というものがまるでない子供でした。
未だに、人より秀でたい、あの人に負けたくない、という気持ちを実感したことが(自覚している限り)ありません。


私には、全くと言っていいほど興味のなかった競争ですが、思い返せばどなたかに、その対象として見られていることが多かったように思います。


強烈な出来事として覚えているのは、小学校6年生の時。
小学校最後の運動会で、リレーの選手を決める時のことでした。

私は、鍛えたことはありませんが幼い頃から俊足だったので、小学校でリレーの選手を任されることを当たり前と受け入れていました。
私自身は、リレーの選手になりたいと望んだこともなく、反対にリレーの選手になりたくないと思ったこともありません。
ただ思いきり走ることが楽しかったので、風を受けながら気持ちよく駆けていると、一緒にスタートしたはずのお友達が、周りにいないという状況があっただけでした。


その日、体育の授業でいつものようにお友達とスタートラインに並び、先生の合図を待っていました。
私には何の緊張感もなく、のほほんとした気分で直前までお友達とふざけていました。

スタートの合図とともに、みな一斉に駆け出しました。

その直後に突然、私の左隣を走っているYちゃんが、私の左腕を乱暴に引っぱりました。



!?




( )内は、コンマ何秒かで脳内に浮かんだ私の思考です。

(Yちゃん、大丈夫かな!?きっと転びそうになって、咄嗟に私の腕をつかんでしまったのだろう!)


隣を振り向くと、何事もなかったように全力疾走しているYちゃんがいました。


(あぁ、よかった!何とか転ばずに済んだみたい。)


私は安心して、また走りに集中することにしました。
一瞬ポケッとしていたので、Yちゃんや他の子が少しだけ前を走っていましたが、すぐにするすると追いつき追い抜きそうになりました。


すると突然、左腕に痛みが走りました。



!?



気づくとYちゃんが、自分のレーンを超えて私の至近距離にいて、肘で何度も私の腕を突いていたのです!


(あれ!?…Yちゃん、どうしてこんなことするの?さっきのも転びそうになったわけじゃないのかな?もしかして、、、もしかして!?リレーの選手になりたくてこんなことを!?)


それに気づいた瞬間、私は走りを緩めました。

呆然としたまま惰性で走り、Yちゃんのあとにゴールしました。


Yちゃんは晴れて一位となり、リレーの選手になることができました。
嬉しそうな笑顔の彼女を、私は遠くから呆然と見つめました。



Yちゃんは当時、とても仲良しだったお友達です。
どちらかというとYちゃんが、私のする事や行く所に興味を持ってくれるような感じで「双子になりたいね」と言ってくれたり、私の髪型や服装をYちゃんはそっくり同じにしたがってくれていました。
それまで何冊ものノートを使って交換日記もしていました。
(今の方はご存じかしら。一冊のノートを手紙代わりにして、仲良しのお友達と毎日のようにやりとりするのです。)



私は、いつもそばにいたYちゃんがそこまでして欲しかったものに、今まで気づかなかった自分に心底驚いていました。

Yちゃんだけでなく、他にも同じような気持ちだった子が、6年間のうちにどれだけいたのだろうと思い、どうしようもなくいたたまれない気持ちになりました。

Yちゃんとは5年生から同じクラスだったので、少なくとも彼女は2年越しでリレーの選手になりたかったのだと思います。


彼女にごめんなさいという気持ちと、以前のように無邪気に接することができなくなった悲しさ、そして彼女が見せたむき出しの敵意への恐怖で混乱してしまい、そっと距離を取るようになってしまいましたが、この一件は、誰にも話しませんでした。


私がリレーの選手を逃したことを、実際はどう感じたかというと、何の悔しさも残念さもなく、かえって気楽だと感じていました。
私にとってリレー競技は、俊足の生徒にだけ任される責任感や異常な緊張感を伴う義務のようにしか考えておらず、憧れとか花形などという認識ではなかったのです。


私が運動会で一番楽しくてワクワクしたのは、何をおいてもみんなと踊るダンスでした。
お友達とふざけたり、キャッキャと笑いながら行う練習自体が楽しかったので、運動会が終わればそれができなくなってしまうのを寂しく感じるほどでした。




そして、小学校最後の運動会がやってきました。


早朝、教室に到着すると、
異様な光景が目に飛び込んできました。


机にうなだれたように腰掛けるひとりの生徒。

頭の周りにぐるっと巻かれた包帯とネット。
片目には眼帯。
顔のあちこちにみられる生々しい傷。
右肩から腕を三角巾で固定し、左脚は机の下で伸びたまま、ギプスか何か白く長いもので固定され、素足の指先が露出していました。



Yちゃんでした。



彼女は、クラスメイトを近づけさせない殺気のような激しく荒々しい気を発していました。

そのせいか誰も彼女に話しかけようとせず、ソワソワしながら遠巻きに見ている状態でした。


先生が到着すると、彼女は保健室に移動することになりました。
片手で杖をつき、ヨロヨロしながら去って行く後ろ姿を、みんな無言で見送りました。


そのあとで先生から説明があり、彼女が昨日、交通事故に遭ったことが知らされました。

習い事の帰り道で車に追突され、ランドセルを背負ったまま3メートル以上も飛ばされてしまったそうです。
幸い命に別状はなく済んだのですが、複数の骨折や全身の打撲により、杖をつかないと歩行もままならない状態でした。


それを聞いて、とっさに私はリレーの選手を任される覚悟をして緊張が走りましたが、

「Yは他の競技には出ないが、リレーにだけはどうしても出たいと言っている。Yにとって最後の運動会だから、みんなで応援してやろう!!」

と、先生がおっしゃいました。


このYちゃんの意志を聞いて、私はますます混乱しました。

私にとってリレー競技は、1年生からずっと渡ってきたバトンを絶対に落とさないように、最低でも順位を維持するか、少しでも先頭になるよう全力で努めて、次の走者に繋げなければならない責任や義務を伴うものだったからです。


Yちゃんは、リレーに出場したいという理由だけで、全員に抜かされることが分かりきった状態でも出たいの?

自分にバトンが渡るまでの1年生から5年生までのがんばりが、無になってしまっても構わないのかな?

アンカーの男子は今どんな気持ちでいるだろう?
彼にとっても晴れの日、最後の運動会なのに。
きっと彼は誰もいなくなったグラウンドを、ポツンと一人で走ることになる…

Yちゃんが、本当に!?本当にリレーに出場したいなんて言ったの??



朝からあまりのショックを受けて、私は運動会が始まっても全く集中できませんでした。


リレーの時間が近づくにつれて緊張が高まり、気分が悪くなるほどに動悸が激しくなってきました。
ついに、わいわい騒いでいるクラスメイトと同じ場所で応援することができなくなった私は、こっそり校門を抜けて、金網のフェンス越しから遠目でYちゃんを見ることに決めました。


転んだり、靴が脱げたり、バトンを落としたり…1年生からどの子にも様々なドラマがあり、
ついにYちゃんにバトンが渡されました。


バランスをとるだけでも大変そうなYちゃんが、一歩一歩、たどたどしく進み始めます。
きっと体中があちこち痛かったのだろうと思います。
彼女は、少し頭を下げて足元の土を見下ろしながら、眼帯をしていない方の片目をカッと見開き、必死の形相でした。


私はその姿を見た瞬間、強烈に恐ろしくなり、それ以上彼女を見続けることができませんでした。

その後のことはよく覚えていません。





Yちゃんのことがあって以来、私は競争心を敏感に意識するようになりました。


それは、私たちを落ち着かない気分にさせること。


勝つことで、少しの間は満たされるけれど、すぐにまた追われるような気持ちになったり、ずっと安心してはいられないこと。


それを持っていると、誰かが敵のように思えたり、仲良くしていられなくなること。


そのままで十分にすてきなのに、本人はまだまだ自分はダメだと思ってしまうこと。



競争心を持て。と、意欲を促すかのように取り上げられることがあるけれど、、、

どんな言葉で着飾っても、どこまで求めて行っても
「競争は人を幸せにしない」と確信するようになりました。




私たちは無意識のうちに、競争、比較が当たり前の世界で生きています。

あなたをもっと高めるために、あなたがもっと強くなるために、あなたがもっと選ばれるために、もっと、もっと、、、
「競争し合いなさい」「比較し合いなさい」
と常に言い聞かされ、あらゆる情報により促されています。

それは物心がつく前から始まり、今も意識が届かないところにまで深く細かく浸透しているのです。
十分に注意を払って客観視しないと、競争や比較をしているのだと気がつかないほどに。





私は私のままでいれば「幸せ」だから、あなたもそのままが「幸せ」で、みんなそれぞれがありのままで「幸せ」。


私が「幸せ」なら、あなたはより「幸せ」になり、みんなはさらに「幸せ」になる。


誰かが「幸せ」になることで、誰も不幸になることがない。



「幸せ」を「愛」「笑顔」「喜び」「平安」「完全」などに置き換えてみてもいいですね。

これが競争や比較のない世界で、私はこちらに住みたいと思います。





競争と比較については、もう少し書きたいと考えています。


今日も読んでくださってありがとう。