ただ愛で在る

被虐待経験から究極の愛を学びました。善悪を超えたあらゆる愛について、気づいたことをありのままに綴ります。

両親に会いにいく

いつも私のブログを読んでくださり、ありがとうございます。


「両親に会いたい」の連載では、取りこぼしのないよう、じっくりと両親との学びを振り返り、その時々に感じたことをありのままにお伝えしようと試みております。

そして、全く思いがけない今の心境にたどり着くまでを、順を追ってお届けする予定です。


そのため現在の私の心境とは、大幅な感覚の違いがある内容となっております。


「両親に会いたい」に登場する私は、傷ついた少女そして女性です。

助けを求める術を知らず、自死だけが唯一の救いなのではないか?と真剣に考えている少女、女性です。





今、私は両親に対して、愛と感謝だけを感じています。




一般的に傷ついた側にとって大きなテーマであるとされる
「許し」。


以前の私はこれを重要視しており、「許し」こそ、傷への最大の癒しであり、問題の解決や終結であると思っていました。


両親を許したい、でも許せない、いいえ許す必要はないのかもしれない、けれど、、、もしも心の底から許すことができたら、どんなに楽になれるだろう、と。





ところが私は、両親から「ふんだんに与えられていた」ことに気づきました。





私の魂が強烈に求めていたものを、何としても学びたかったことを、彼らが惜しみなく与えてくれたと感じるのです。




愛と感謝に満たされている今、あれほどこだわっていたはずの「許し」が、不思議なほど遠く霞んで感じられています。


もしかしたら「許し」は「何かを奪われた」という感覚がないと反応しないのかもしれません。














私は来月、両親に会いに行ってまいります。


関係の断絶以来、10年ぶりの再会です。


なぜ平安を取り戻した今になって、わざわざ両親に会いに行こうとするのか、疑問に感じられる方も多いでしょう。


特に被虐待当事者からすると、この行動は自滅的に感じられるかもしれません。







私の動機はただ一つ。








これは、私の夢なのです。









私は信じています。

この地球のどこかに、被害者や加害者という関係から解き放たれ、傷や罪や懺悔は感謝へと変わり、みんながなかよく笑い合う幸せな愛の世界があることを。



そんな世界をどうしてもこの目で見たい。



存在しないのなら、私が創りたい。



そのためには、全く新しい愛に基づく健康的な関係を、私自身が両親とともに築いていくことが、創造の第一歩だと感じています。



今や私は傷ついた被害者ではありません。



両親をまったく恐れてもいません。



彼らに従うことも、謝ることも、ご機嫌を取ることも、無理に笑う必要も感じません。



ただ愛で在る私のままで、闇の中にいる彼らと純粋に向き合っていくのです。






もしかしたら、失敗して泣いて帰って来るかもしれませんが(笑)、試す価値は大いにあると思っていますし、いま晴れ晴れとした心で両親に会いに行けることが、何よりの喜びです。



どのような結果になるか分かりませんが、すべてをありのままにお伝えしていこうと思い、「両親に会いにいく」として新たに連載いたします。



今後も、同時進行で書きたい事柄が山のようにあり、身体は1つしかないため遅々とした発信になりますが、どうぞ気長にお付き合いください。












地球の小さな一点に、そんな愛の世界が誕生したら素敵だと思いませんか。









今日も読んでくださってありがとう。

ありのままに書く

このブログでは、特に虐待の描写など、目を塞ぎたくなるような内容も載せています。


最初は、もっとオブラートに包んだ表現にして、読み手のショックを和らげようと思っていましたが、すぐにその考えは改めました。




ほとんどの虐待の被害者たちは、大きな声を持ちません。


彼らは、非当事者である一般の方々の想像をはるかに超えるほど、深く激しく心が傷ついており、自分の体験を外に向けて語ることが強烈なフラッシュバックを伴い、自らの命を絶つことにもなりかねない、非常に危険な行為となりえます。


そのため、彼らの声はほとんど届きません。





そして虐待する者たちは、自らの行いを決して、死ぬまで、誰にも告白しません。


もし勇気を出して彼らに虐待を訴えても、ほとんどの者が行いを認めることはまずありません。



親子間であれば、

「お前はまだ幼かったから、記憶違いをしている」

「あまりにも言うことを聞かず、手がかかってどうしようもなかった」



恋人、夫婦間であれば、

「自分は暴力を振るいたくないのに、いつもお前が挑発する」

「お前が変われば、自分はこんなことをしなくて済む」


など。

ごく控えめな反応があったとしても、自分が暴力を行ったのは「全てお前(被害者)のせい」だと当然のようにあしらうでしょう。
もちろんこれら全てが事実とは異なります。






大人になれないまま亡くなった子供たち、助けが得られないまま亡くなった人々は、何も語りません。


ニュースでは衝撃的に報じられますが、それが映画やドラマの世界で起きる特別なことではなく、現実にたくさんの家庭で起きていると、見ている人々にどれほどの現実感を伴って伝わっているでしょうか。



暴力により亡くなった人々、過去に暴力に遭った人々は、ただの被害者でなく、あなたと何も変わりません。


夢があり、好きなことに夢中になり、お友達をユーモアで笑わせ、恋をして、兄弟姉妹に優しくし、両親を、恋人を、配偶者を、また我が子を、あなたと同じように深く愛しました。






今この瞬間も、たくさんの密室で暴力が行われています。


過去の暴力から逃れた多くの人たちも、癒えない傷を抱えて、その事を明かせないまま、必死で今日を生きています。


そんな彼らをメンヘラなどと揶揄し、侮辱する人もいます。


虐待者が、その残酷な行いを誰にも知られず堂々と生きていて、誰にも咎められない一方で、傷ついた人たちの行動だけが注目されて取り上げられ、侮辱の対象になっていることが、私には異様なことに感じられます。


これは虐待者の発想そのものですから。











私に何ができるかはわかりません。


けれど、せめて私はありのままに書きます。


何も飾らず、何も削らず、ありのままに。





今日も読んでくださってありがとう。

もう嘘はつかない2

小学生の頃、スプーン曲げが流行った時期がありました。


一時期、弟はこれに感化され、スプーンと何十分もにらめっこしながら、曲がれ曲がれと念じていました。

学校では、何人ものクラスメイトが休み時間にスプーン曲げに挑戦していましたし、仲良しのお友達も、実は家で毎日1時間もスプーン曲げの練習をしていると打ち明けてくれたのですが、私は、こういった話題にまったく興味のないふりをしていました。

本当は、超能力の話題になると、自分の正体が明らかになるのが怖くて、つばも飲み込めないほどに緊張していました。


詳しくはありませんが、私は、透視や念動力、物の記憶を読むなど、いわゆる超能力といわれるものを、ごく当たり前に扱っていたからです。

ところがこれがテレビで取り上げられ、人々が大げさに感嘆するのを見て、これは特異なことで普通ではないのだと知りました。




ある日、ロシアで超能力を使える子供たちが集められて、訓練をしている映像を見ました。

衝撃が走りました。

私も同じようなことができると両親に知られたら、彼らがそっとしておいてくれるとは思えず、きっとどこかの施設に監禁されて訓練をさせられたり、人前にさらされ超能力を使って仕事をさせられる、と私は思いこんでしまいました。

とにかく目立たず静かにしていたい、と思っていた私にとって、そのような事態はもっとも避けたいことで、恐怖以外のなにものでもありませんでした。





透視や物の記憶を読んでしまっても、黙っていれば誰にも気づかれることはありません。


やっかいなのは念動力でした。


ある物体を、ぼーっとした頭で何の気なしに見ていると、その後に一瞬浮かんだ思考が、現実になってしまうからです。

「ちょっと遠いな。手に届くところに来ないかな」とか

「あの重たいフタが開いたらいいな」というような、ほんの気軽な思いつきでした。

それは一瞬で起きるので、弟やお友達がやるように、集中して念じる必要などありませんでした。




超能力をテレビで知って以来、私は、この念動力を発動させないよう反対方向に集中力を使うようになりました。

ぼーっと物を見つめないように、とにかく気をつけました。

物と目が合ってしまった時は(当時はこんな感覚でした)、

「お願い!じっとしてて。動いてはだめ、、、」と、物に言い聞かせて、自分の思考に注意をしながら、その場からじわじわと離れるということをしていて、ものすごく疲れました。




また、両親から理不尽になじられるなどして、心の中に激しい怒りの感情が沸騰してくると、それに同調するかのように、家の空間全体が歪んで、ギュっと凝縮して密度が濃くなったように感じることがありました。

電波は乱れ飛び、耳鳴りが強くなってきます。

家中の物という物が、今にも動くのを待って、1mmくらい浮き上がって細かく揺れているような待機状態になります。

もし私が「飛べ!」と思考したら、一斉に飛んでしまいそうな鋭い緊迫感でした。


こうなってしまうと私も我に返り、まずは空間をなだめることを優先しました。


心の中でゆっくりと「大丈夫。落ち着いて。元に戻って。」と空間に何度も言い聞かせ、その場をなだめました。






多くの人が憧れたり、面白がったり、怖がったり、疑ったりする超能力。

超能力って何でしょうね。

私も未だによくわかりません。

少なくとも、当時の私を幸せにしてくれるものではありませんでした。



あらゆる知識、技術、能力は、それぞれが愛に基づくもので、愛によって高められること、そして、みんなを幸せにするために使われなければ、本来の意味はないと考えています。



愛するために、超能力なんて必要かしら?笑






また一つ、大きな告白ができて清々しました。





今日も読んでくださってありがとう。

文字のフォントについて→解決

今日ようやく、すべての記事のフォントを統一することができました!


あぁ、晴れ晴れしました!!(あれ?遅いですか?)


不可思議なフォントの大小によって、私の意図しない強調文がなくなり、それだけはホッとしているのですが、


理想は、もっと大きなフォントで文字を読みやすくしたいと思っています。


これまでいくつかは試したのですが、未だに変更できません。


元々アナログ人間でこういった作業が特別に苦手なのと、大雑把なところもあるので、


う〜ん、わからない、、、と悩んで費やす労力を、文章作成に注ぎ込みたいと思ってしまいます(汗)


ですから、余力ができましたらフォントを大きくするかもしれません。




が、




しないかもしれません!!キッパリ宣言。(こちらが濃厚)






読んでくださるみなさま、いつもありがとうございます♡

両親に会いたい2

☆ご注意ください☆
この記事は、被虐待当事者にフラッシュバックが起きる可能性が非常に高い内容です。

また非当事者であっても、想像以上の強いストレスを受けてしまう可能性が十分にあります。

少しでも不快に感じられましたら、すぐに閲覧を中止してご自分をお守りください。

この記事はずっとここにありますので、あなたが安全な時にいつでも読むことができます。

どうぞご無理をなさらず、どなたもご自分の安定した感覚、十分に安全なスペースを最優先になさってくださいね。





それでは続きにまいります。




「愛ちゃんって、、、」





「ご両親に大切に育てられたお嬢さん、という感じ」


「何をやっても許されて、のびのびと育ってきたでしょう?」


「ご両親に小さい頃からずっと可愛がられてきたでしょう?」


「箸より重いもの持ったことなさそうだよね(笑)」


「箱入り娘でしょ?苦労したことなさそう(笑)」


社会人になってから私は、年上の方々からこのように言われることが度々ありました。

良い印象を持ってくださるのだから、ありがたいと思わなければと自分に言い聞かせながらも、傍目の印象と事実にはあまりの乖離があり、そのような言葉をかけられるたびにうんざりしていました。


両親と音信を絶っていた間も、年末年始や大型連休の前後になると繰り返される何気ない質問が、煩わしくて苦痛でなりませんでした。

必殺「実家には帰省するの?(したの?)」です。

「しない。」「していない。」と答えると、

殆どの方は当然のように、
「何で?」とおっしゃいます。

さらに、
「可愛い娘が帰ってくるのを楽しみにしていると思うよ?」

「ご両親寂しがってると思うよ。行ってあげたら?」

「顔を見せるだけでも親孝行だよ?」

「じゃ次はいつ会いに行くの?」
など、踏みこんだことをおっしゃる方もいました。


内心、放っておいて!と煩わしく思いつつ、ごく気軽にそうおっしゃるみなさんこそ、普通の親御さまにちゃんと愛されて育ったのだなと眩しく感じられました。



帰省して、親の前でくつろぐ。


実家に行けば安心して羽を伸ばせる。


親と一緒にいても、自分の心身が安全と思える。


このように甘い穏やかな関係を、生まれながらに享受している方には想像しがたいかもしれませんが、これは決して当たり前のことではないのです。

親御さまが時間をかけて、たくさんの愛を育み、安全な場を創り続けてくださったことの賜物なのです。



私にとっては、外の世界から自分を守ってくれるはずの両親が、外の人に見られない密室で自分に危害を加えるため、両親の住む家が世界で最も危険な場所でした。







「中学を卒業したら風俗で働いて、早く金を入れろ」




これは、私が風俗の意味も分からない小学生の頃から、繰り返し父に言われてきた言葉です。


父がこのような未来を娘に望んでいたという事実だけで、説明は不要かと思いますが、父は、私の希望を打ち砕くことを喜びに感じるような人でした。


虐待をする彼の目は輝き、私が激しい痛みに耐えている時や、私を深く傷つける言葉を放ったときには、普段は曇って不機嫌ばかりの顔が、みるみる生き生きとして喜びに溢れた表情に変化するのでした。


彼は、娘を虐待することで自らの精神を安定させているかのように見えました。






母は、父の機嫌をとることに全精力を注いでいました。


理由もなくコロコロと変わる夫の機嫌をとることに終始し、疲れ果てているように見えました。


彼にどんな屈辱的な言葉をかけられても、理不尽に怒鳴られても愛想笑いをして本音を言わず、外の世界に向かっては、幸せな家庭を演じて見せているようでした。



「腹が立っても絶対に言い返さず、グッとこらえなさい」


「人に苦しい顔を見せるのは恥ずかしいこと」


「相手がどんなに悪くても、自分が謝って場を収めること」


これらを母から折々に言い聞かせられました。
決して私をいじめるためではなく、母が私のためを思って親身になり伝えてくれていた言葉です。


彼女の追い詰められて歪んでしまった精神も、やはり娘を虐待することで何とか保てているように見えました。

けれど彼女の目に喜びはなく、必死で苦痛に耐えているように見えました。
彼女は虐待をしたあとに大抵、私の元に戻ってきて
「痛かったでしょう?こんなに腫れて、、、かわいそうに!」
「ごめんね!、、、ごめんね!!」
と大泣きしながら何度も謝ってくるのでした。


父が娘に暴力を振るう場面を見ても、止めることはなく
「女の子なんだから顔はやめて!!」
と、いつも遠くから父に訴えていました。





無力だった子供の私にとって、彼らの暴力から身を守る術は何もありませんでした。


けれど、これだけは死守しようと心に決めたことがあります。

それは理不尽な暴力に対する精一杯の抵抗で、私が誇りを保つためにできた、たった一つの行動でした。



「決して悲鳴をあげないこと。」


「決して泣かないこと。」



虐待が始まるのを察すると、私は瞬時に五感を閉ざしました。


肉が焼かれるような、えぐられるような痛み、視界が歪むほどの衝撃、関節が外れそうになる時の痛み、耳の奥の痛みと雑音、腫れて狭くなった口の中に広がる血の味、身体が壊されていく恐怖、、、

これらを出来る限り感じないよう無心になり、五感を閉ざすことにだけ全神経を集中しつづけました。

暴力を受けている間、視界はいつもスローモーションで見えました。

身体が倒れる時、視界はゆったりと優雅に傾いていきます。


私は人形のように無抵抗、無言、無表情で耐え続け、彼らが疲れるのを延々と待ちました。

「いつか、終わる。必ず、終わる。」

これだけを、頭の中で呪文のように繰り返しました。

のちに父は、そんな娘が気味悪く、子供ながらに怖かったと言っていました。




それとは別にもう一つ。


この地獄のような毎日に耐えられた、唯一の希望であり、真に私の心を守ってくれたものがあります。


それは、一人で静かになるといつも心に浮かぶ、美しい泉でした。


温泉のように、中心から新しい湧水が絶え間なく溢れては拡がり、キラキラと輝く透明な水で満たされた、雄大な泉です。



どんなに辛いことがあった日も、一人で静かになってからそっと心の泉を確認すると、そこには一滴の汚れもなく、透明な湧水が溢れる美しい泉が広がっていました。



それを見るたびに、

「大丈夫。こんなに痛めつけられても、この泉は何も汚れていない。だから私は絶対に大丈夫。」

と、不思議なくらい勇気が湧いてくるのでした。


泉の存在は私の最大の喜びで、平安を思い出す唯一の支えであり、その泉こそが、私の魂そのものであるようにも感じていました。





3に続きます。

比べっこしたい?

私は、競争心というものがまるでない子供でした。
未だに、人より秀でたい、あの人に負けたくない、という気持ちを実感したことが(自覚している限り)ありません。


私には、全くと言っていいほど興味のなかった競争ですが、思い返せばどなたかに、その対象として見られていることが多かったように思います。


強烈な出来事として覚えているのは、小学校6年生の時。
小学校最後の運動会で、リレーの選手を決める時のことでした。

私は、鍛えたことはありませんが幼い頃から俊足だったので、小学校でリレーの選手を任されることを当たり前と受け入れていました。
私自身は、リレーの選手になりたいと望んだこともなく、反対にリレーの選手になりたくないと思ったこともありません。
ただ思いきり走ることが楽しかったので、風を受けながら気持ちよく駆けていると、一緒にスタートしたはずのお友達が、周りにいないという状況があっただけでした。


その日、体育の授業でいつものようにお友達とスタートラインに並び、先生の合図を待っていました。
私には何の緊張感もなく、のほほんとした気分で直前までお友達とふざけていました。

スタートの合図とともに、みな一斉に駆け出しました。

その直後に突然、私の左隣を走っているYちゃんが、私の左腕を乱暴に引っぱりました。



!?




( )内は、コンマ何秒かで脳内に浮かんだ私の思考です。

(Yちゃん、大丈夫かな!?きっと転びそうになって、咄嗟に私の腕をつかんでしまったのだろう!)


隣を振り向くと、何事もなかったように全力疾走しているYちゃんがいました。


(あぁ、よかった!何とか転ばずに済んだみたい。)


私は安心して、また走りに集中することにしました。
一瞬ポケッとしていたので、Yちゃんや他の子が少しだけ前を走っていましたが、すぐにするすると追いつき追い抜きそうになりました。


すると突然、左腕に痛みが走りました。



!?



気づくとYちゃんが、自分のレーンを超えて私の至近距離にいて、肘で何度も私の腕を突いていたのです!


(あれ!?…Yちゃん、どうしてこんなことするの?さっきのも転びそうになったわけじゃないのかな?もしかして、、、もしかして!?リレーの選手になりたくてこんなことを!?)


それに気づいた瞬間、私は走りを緩めました。

呆然としたまま惰性で走り、Yちゃんのあとにゴールしました。


Yちゃんは晴れて一位となり、リレーの選手になることができました。
嬉しそうな笑顔の彼女を、私は遠くから呆然と見つめました。



Yちゃんは当時、とても仲良しだったお友達です。
どちらかというとYちゃんが、私のする事や行く所に興味を持ってくれるような感じで「双子になりたいね」と言ってくれたり、私の髪型や服装をYちゃんはそっくり同じにしたがってくれていました。
それまで何冊ものノートを使って交換日記もしていました。
(今の方はご存じかしら。一冊のノートを手紙代わりにして、仲良しのお友達と毎日のようにやりとりするのです。)



私は、いつもそばにいたYちゃんがそこまでして欲しかったものに、今まで気づかなかった自分に心底驚いていました。

Yちゃんだけでなく、他にも同じような気持ちだった子が、6年間のうちにどれだけいたのだろうと思い、どうしようもなくいたたまれない気持ちになりました。

Yちゃんとは5年生から同じクラスだったので、少なくとも彼女は2年越しでリレーの選手になりたかったのだと思います。


彼女にごめんなさいという気持ちと、以前のように無邪気に接することができなくなった悲しさ、そして彼女が見せたむき出しの敵意への恐怖で混乱してしまい、そっと距離を取るようになってしまいましたが、この一件は、誰にも話しませんでした。


私がリレーの選手を逃したことを、実際はどう感じたかというと、何の悔しさも残念さもなく、かえって気楽だと感じていました。
私にとってリレー競技は、俊足の生徒にだけ任される責任感や異常な緊張感を伴う義務のようにしか考えておらず、憧れとか花形などという認識ではなかったのです。


私が運動会で一番楽しくてワクワクしたのは、何をおいてもみんなと踊るダンスでした。
お友達とふざけたり、キャッキャと笑いながら行う練習自体が楽しかったので、運動会が終わればそれができなくなってしまうのを寂しく感じるほどでした。




そして、小学校最後の運動会がやってきました。


早朝、教室に到着すると、
異様な光景が目に飛び込んできました。


机にうなだれたように腰掛けるひとりの生徒。

頭の周りにぐるっと巻かれた包帯とネット。
片目には眼帯。
顔のあちこちにみられる生々しい傷。
右肩から腕を三角巾で固定し、左脚は机の下で伸びたまま、ギプスか何か白く長いもので固定され、素足の指先が露出していました。



Yちゃんでした。



彼女は、クラスメイトを近づけさせない殺気のような激しく荒々しい気を発していました。

そのせいか誰も彼女に話しかけようとせず、ソワソワしながら遠巻きに見ている状態でした。


先生が到着すると、彼女は保健室に移動することになりました。
片手で杖をつき、ヨロヨロしながら去って行く後ろ姿を、みんな無言で見送りました。


そのあとで先生から説明があり、彼女が昨日、交通事故に遭ったことが知らされました。

習い事の帰り道で車に追突され、ランドセルを背負ったまま3メートル以上も飛ばされてしまったそうです。
幸い命に別状はなく済んだのですが、複数の骨折や全身の打撲により、杖をつかないと歩行もままならない状態でした。


それを聞いて、とっさに私はリレーの選手を任される覚悟をして緊張が走りましたが、

「Yは他の競技には出ないが、リレーにだけはどうしても出たいと言っている。Yにとって最後の運動会だから、みんなで応援してやろう!!」

と、先生がおっしゃいました。


このYちゃんの意志を聞いて、私はますます混乱しました。

私にとってリレー競技は、1年生からずっと渡ってきたバトンを絶対に落とさないように、最低でも順位を維持するか、少しでも先頭になるよう全力で努めて、次の走者に繋げなければならない責任や義務を伴うものだったからです。


Yちゃんは、リレーに出場したいという理由だけで、全員に抜かされることが分かりきった状態でも出たいの?

自分にバトンが渡るまでの1年生から5年生までのがんばりが、無になってしまっても構わないのかな?

アンカーの男子は今どんな気持ちでいるだろう?
彼にとっても晴れの日、最後の運動会なのに。
きっと彼は誰もいなくなったグラウンドを、ポツンと一人で走ることになる…

Yちゃんが、本当に!?本当にリレーに出場したいなんて言ったの??



朝からあまりのショックを受けて、私は運動会が始まっても全く集中できませんでした。


リレーの時間が近づくにつれて緊張が高まり、気分が悪くなるほどに動悸が激しくなってきました。
ついに、わいわい騒いでいるクラスメイトと同じ場所で応援することができなくなった私は、こっそり校門を抜けて、金網のフェンス越しから遠目でYちゃんを見ることに決めました。


転んだり、靴が脱げたり、バトンを落としたり…1年生からどの子にも様々なドラマがあり、
ついにYちゃんにバトンが渡されました。


バランスをとるだけでも大変そうなYちゃんが、一歩一歩、たどたどしく進み始めます。
きっと体中があちこち痛かったのだろうと思います。
彼女は、少し頭を下げて足元の土を見下ろしながら、眼帯をしていない方の片目をカッと見開き、必死の形相でした。


私はその姿を見た瞬間、強烈に恐ろしくなり、それ以上彼女を見続けることができませんでした。

その後のことはよく覚えていません。





Yちゃんのことがあって以来、私は競争心を敏感に意識するようになりました。


それは、私たちを落ち着かない気分にさせること。


勝つことで、少しの間は満たされるけれど、すぐにまた追われるような気持ちになったり、ずっと安心してはいられないこと。


それを持っていると、誰かが敵のように思えたり、仲良くしていられなくなること。


そのままで十分にすてきなのに、本人はまだまだ自分はダメだと思ってしまうこと。



競争心を持て。と、意欲を促すかのように取り上げられることがあるけれど、、、

どんな言葉で着飾っても、どこまで求めて行っても
「競争は人を幸せにしない」と確信するようになりました。




私たちは無意識のうちに、競争、比較が当たり前の世界で生きています。

あなたをもっと高めるために、あなたがもっと強くなるために、あなたがもっと選ばれるために、もっと、もっと、、、
「競争し合いなさい」「比較し合いなさい」
と常に言い聞かされ、あらゆる情報により促されています。

それは物心がつく前から始まり、今も意識が届かないところにまで深く細かく浸透しているのです。
十分に注意を払って客観視しないと、競争や比較をしているのだと気がつかないほどに。





私は私のままでいれば「幸せ」だから、あなたもそのままが「幸せ」で、みんなそれぞれがありのままで「幸せ」。


私が「幸せ」なら、あなたはより「幸せ」になり、みんなはさらに「幸せ」になる。


誰かが「幸せ」になることで、誰も不幸になることがない。



「幸せ」を「愛」「笑顔」「喜び」「平安」「完全」などに置き換えてみてもいいですね。

これが競争や比較のない世界で、私はこちらに住みたいと思います。





競争と比較については、もう少し書きたいと考えています。


今日も読んでくださってありがとう。

ぜんそくが教えてくれたこと7

重度のぜんそく患者だった私は、現在、一切の薬を摂っておらず通院もしておりません。

ぜんそくの症状である呼吸困難、胸痛、胸の圧迫感、絶え間ない咳などから解放され、健康を取り戻しています。

ささやかな私の体験談が、どなたかの希望になることを願ってやみません。




それでは続きにまいります。


夫の運転に頼り、はるばる遠方にある小さな鍼灸院へと向かうことになりました。
帰宅時間の見当がつかなかったので、ごはんやお水を持って、まだ6ヶ月だった雪乃も一緒に連れて行くことにしました。


長いドライブを経て予約時間の30分前に到着し、私だけが鍼灸院に入りました。
夫と雪乃には、お散歩や食事をしながら外で待っていてもらいました。



高校生の私が訪れた当時、鍼灸院はご夫婦で営んでいて、助手と思しき女性がいらっしゃいました。
私は助手の女性から全身マッサージを受けた後に、奥様から針をうっていただいたので、お2人にお目にかかるのを楽しみにしていたのですが、奥様は難病にかかって引退なさり、現在は自宅療養されているそうでした。

鍼灸師のご主人と女性は、一度きりしか伺わなかった私のことを、なぜか詳しく(私が忘れていることまで)思い出してくださいました。


鍼灸師には、ぜんそくの状態や、手術をためらっていることなどを伝えました。
前回の奇跡もあったので私は針を希望していましたが、鍼灸師の判断で今回はマッサージと指圧を受けることになりました。


施術を受けながら色々な話をするなかで、小学校高学年のお孫さん(当時)もぜんそくだと伺いました。
彼の見立てで、
「あなたは全くアレルギー体質ではないようです」
「アレルギー体質の人はこういう身体をしていません」
と、おっしゃいました。


実際ぜんそくには、様々な要因がありアレルギーと無関係なことも多いのですが(小児は除く)、基本的にアレルギー科(または呼吸器科)を受診しなければ、最新のぜんそく治療は受けられません。

私は2つの病院しか経験がありませんが、ぜんそく患者はアレルギー体質という前提で治療が進められていると感じました。
医師に直接、スギとヒノキ花粉症以外は何のアレルギーも感じないし困っていないと伝えても、どちらの病院でも時期にかかわらずアレルギーを抑える薬が処方されていたからです。

それまではこちらがどう伝えても、あなたはアレルギー体質だと医師に言われてきたので、鍼灸師の見立てを聞いて、嬉しくてこっそり涙ぐんだのを覚えています。


その頃の私には、大きな悩みがありました。
今後、仕事を続けて行けるのだろうか?という問題です。

2度目の休職に入ってからは、このことで連日、頭が沸騰するほどに悩み続けていました。

10年勤める内には大変なことがありながらも、学びが多く楽しくて、一度も辞めたいと思った事がないどころか「この仕事は天職」とまで思っていたからです。


9ヶ月の間に2度もの長期休職をして、未だ回復の兆しさえ見えない現状。
仮に、気管支サーモプラスティ治療が成功したとして、複数の薬を使用しても効かない重症のぜんそくから解放されたとしても、ぜんそく自体は治らないため、同じように薬を摂り続ける生活を一生続けるという現実。


やりがいのある仕事を手放して、手術のあとは身体に負担のかからないという動機で選んだ仕事を細々としながら、いつ来るかわからない大発作に怯えつつ、死ぬまでぜんそく患者として生きていく未来を想像してみても、まったく明るい気持ちになれませんでした。


どうしても仕事に復帰したい、でも実際には以前のように働けない…悔しい!なぜ!?なぜこんなに薬が効かない?このままでは仕事どころか何もできなくなるのでは?とにかく仕事は辞めたくない!でも身体が悲鳴をあげている!このままではいけない!どうしよう?どうしたらいい?本当はどうしたい?
出口が見つからず、混沌とした思考だけが高速回転しているようで、考えるほどに目がまわりそうでした。


私は思いきって、この鍼灸師に悩みを話してみました。


このあとに彼からいただいた言葉により、ついに私は仕事を辞める決断をすることになります。





8に続きます。