もう嘘はつかない2
小学生の頃、スプーン曲げが流行った時期がありました。
一時期、弟はこれに感化され、スプーンと何十分もにらめっこしながら、曲がれ曲がれと念じていました。
学校では、何人ものクラスメイトが休み時間にスプーン曲げに挑戦していましたし、仲良しのお友達も、実は家で毎日1時間もスプーン曲げの練習をしていると打ち明けてくれたのですが、私は、こういった話題にまったく興味のないふりをしていました。
本当は、超能力の話題になると、自分の正体が明らかになるのが怖くて、つばも飲み込めないほどに緊張していました。
詳しくはありませんが、私は、透視や念動力、物の記憶を読むなど、いわゆる超能力といわれるものを、ごく当たり前に扱っていたからです。
ところがこれがテレビで取り上げられ、人々が大げさに感嘆するのを見て、これは特異なことで普通ではないのだと知りました。
ある日、ロシアで超能力を使える子供たちが集められて、訓練をしている映像を見ました。
衝撃が走りました。
私も同じようなことができると両親に知られたら、彼らがそっとしておいてくれるとは思えず、きっとどこかの施設に監禁されて訓練をさせられたり、人前にさらされ超能力を使って仕事をさせられる、と私は思いこんでしまいました。
とにかく目立たず静かにしていたい、と思っていた私にとって、そのような事態はもっとも避けたいことで、恐怖以外のなにものでもありませんでした。
透視や物の記憶を読んでしまっても、黙っていれば誰にも気づかれることはありません。
やっかいなのは念動力でした。
ある物体を、ぼーっとした頭で何の気なしに見ていると、その後に一瞬浮かんだ思考が、現実になってしまうからです。
「ちょっと遠いな。手に届くところに来ないかな」とか
「あの重たいフタが開いたらいいな」というような、ほんの気軽な思いつきでした。
それは一瞬で起きるので、弟やお友達がやるように、集中して念じる必要などありませんでした。
超能力をテレビで知って以来、私は、この念動力を発動させないよう反対方向に集中力を使うようになりました。
ぼーっと物を見つめないように、とにかく気をつけました。
物と目が合ってしまった時は(当時はこんな感覚でした)、
「お願い!じっとしてて。動いてはだめ、、、」と、物に言い聞かせて、自分の思考に注意をしながら、その場からじわじわと離れるということをしていて、ものすごく疲れました。
また、両親から理不尽になじられるなどして、心の中に激しい怒りの感情が沸騰してくると、それに同調するかのように、家の空間全体が歪んで、ギュっと凝縮して密度が濃くなったように感じることがありました。
電波は乱れ飛び、耳鳴りが強くなってきます。
家中の物という物が、今にも動くのを待って、1mmくらい浮き上がって細かく揺れているような待機状態になります。
もし私が「飛べ!」と思考したら、一斉に飛んでしまいそうな鋭い緊迫感でした。
こうなってしまうと私も我に返り、まずは空間をなだめることを優先しました。
心の中でゆっくりと「大丈夫。落ち着いて。元に戻って。」と空間に何度も言い聞かせ、その場をなだめました。
多くの人が憧れたり、面白がったり、怖がったり、疑ったりする超能力。
超能力って何でしょうね。
私も未だによくわかりません。
少なくとも、当時の私を幸せにしてくれるものではありませんでした。
あらゆる知識、技術、能力は、それぞれが愛に基づくもので、愛によって高められること、そして、みんなを幸せにするために使われなければ、本来の意味はないと考えています。
愛するために、超能力なんて必要かしら?笑
また一つ、大きな告白ができて清々しました。
今日も読んでくださってありがとう。