ただ愛で在る

被虐待経験から究極の愛を学びました。善悪を超えたあらゆる愛について、気づいたことをありのままに綴ります。

ぜんそくが教えてくれたこと6

重度のぜんそく患者だった私は、現在、一切の薬を摂っておらず通院もしておりません。

ぜんそくの症状である呼吸困難、胸痛、胸の圧迫感、絶え間ない咳などから解放され、健康を取り戻しています。

ささやかな私の体験談が、どなたかの希望になることを願ってやみません。




それでは続きにまいります。



柴犬さんには、雪乃(ゆきの)と名付けました。

2015年4月。
我が家に迎えたときは、まだ3ヶ月の子犬だったのでお散歩も短時間でしたが、あっという間に成長して元気盛りになるという心構えをしました。

私は、一日も早く健康になり雪乃と楽しくお散歩したい、という目標ができたので、治療にもより真剣に取り組みました。
ピークフロー値を毎日、朝昼晩に測り、ぜんそく日誌も真面目につけていました。
日常生活でも、発作予防のためにできることは何でもやりました。

この時点で毎日、ぜんそくの吸入薬2種類、アレルギー薬2種類、胃腸薬1種類、発作がひどいと更に2種類の薬を追加して摂っていました。
ぜんそく吸入薬は、厚生労働省で承認された1日の最大量をすでに摂っていました。



通常のお仕事に、雪乃のお世話が加わったことで私の体力的負担は増えましたが、6月頃までは、まずまずの体調を維持しており順調のように思えました。

蒸し暑い日が増えてきた7月。
いつになく全身の倦怠感が続くようになりました。

いつもの倦怠感は、身体が重たくても何とか動ける程度ですが、このとき感じていたものは異常でした。

短時間の休憩のつもりでも、一度ベッドやソファで横になってしまうと、身体全体が文鎮にでもなったような不自然なくらいの重たさを感じて落ち着かない気分でいると、その後すぐに猛烈な眠気が起こり、そのまま何時間も眠ってしまうというものでした。

ぜんそくの状態も再び悪化してきました。
呼吸困難がひどく、ついに雪乃のお散歩にも行けなくなりました。
仕事にやっと復職できたというのに、たった数ヶ月で再び休職を余儀なくされました。


いつものように病院で診察を受けたその日、医師から思いがけないことを伝えられました。


「あなたのぜんそくはもう、うちの病院では手に負えないレベルです。私も通っている病院を紹介しますから、できるだけ早くそちらの病院で治療を始めてください。」


「気管支サーモプラスティという手術があるのをご存じですか?これは薬が効かない重症ぜんそく患者が対象の、日本で認可されたばかりの治療でまだ保険も効きません。(2015.7時点) 」


「紹介する病院は、その治療を日本で初めて行った病院で、現時点で数例の実績があります。あなたはその対象になるレベルだと思います。」




言葉を失うという表現がありますが、このとき私はまさに言葉を失ってしまいました。


気管支サーモプラスティは、内視鏡を使って気管支の内部に電極付きのカテーテルを挿入し、肥厚した気管支の平滑筋を65℃で焼いて空気の通り道を広げるという手術です。


普通の日常生活を送るために、残された治療が……手術?


私はどうしても手術などしたくなかったので、紹介された病院に素直に向かうことができず、悶々として迷い続けました。


そんな中ふと、ある鍼灸院のことを思い出しました。

それは私が高校生の頃、たった一度だけ針治療を受けた鍼灸院でした。
バレーボールで痛めた腰痛が何ヶ月も治らずに困っていたのを、たった40分の針治療のあと治療台から起き上がると、何事もなかったように、痛みや背中全体の筋肉のこわばりが消え去っていて、そのまま完治した!という奇跡のような体験をした鍼灸院でした。


あの鍼灸院に行ってみよう!!


うちから車で2時間以上もかかる場所にある鍼灸院でしたが、私はすぐに予約を入れました。




書いていると当時のことが色々と思い出され感慨深いです。
7に続きます。

ぜんそくが教えてくれたこと5

重度のぜんそく患者だった私は、現在、一切の薬を摂っておらず通院もしておりません。

ぜんそくの症状である呼吸困難、胸痛、胸の圧迫感、絶え間ない咳などから解放され、健康を取り戻しています。

ささやかな私の体験談が、どなたかの希望になることを願ってやみません。



それでは続きにまいります。

その冬の記憶のほとんどは、モコモコのスランケットですっぽりと身体を包み、ソファの上でうずくまってひたすら激しい呼吸をしていたことです。
動くスランケットの繊維の先をじっと見つめたり、ソファ布地の織り目の細かい凹凸や、ソファの隙間に入りそうな小さなお菓子のクズなどをじっと見つめながら、一日の大半を過ごしました。

気を紛らせたくてテレビを点けてみたり本を読もうとしてみたものの、内容が全く頭に入ってこないばかりか、集中しようとすると酸素が必要なようで、かえって苦しくなりやめました。

仕事のメールに返信しなければならない時も、呼吸で身体が激しく揺れるので、指先を安定させることが難しく誤字ばかりを打ち込んでしまって、たった1〜2行の返信に長時間を要しました。



ぜんそくの治療は難航していましたが、薬を増量し、種類を変えながら2週間単位(急性発作に使用する以外の一般的なぜんそく薬はゆっくり効いてくる)で観察を繰り返しているうちに、じわじわと春が近づいてきました。

呼吸は日を追うごとに楽になっていきました。

ここで私は、ようやく薬が効いてきた!と喜び、医師もそのように判断をしました。
そして医師から、
「花粉症を持っているとぜんそく症状が悪化する」
と言われたためアレルギー検査を行うことにし、ついでに動物アレルギーを項目に加えることにしました。


このころ私は、かねてからの希望だった犬と一緒に暮らす心構えをしていました。
自分に合う薬を探すまで時間はかかったけれど、今後は、殆どのぜんそく患者と同じように、薬と共存しながら普通の日常生活が送れるようになるだろうと楽観視していたからです。

検査でイヌアレルギーが出ないか、結果を聞くまでの2週間はずっとそわそわして過ごしました。
検査の結果、スギ花粉5、ヒノキ花粉3、ブタクサ花粉1で、イヌネコなどの動物アレルギーは0でした。

花粉症のことはさておき、私はイヌアレルギーがなかったことで大喜びしました。
その場で医師に、今後犬を迎えたい旨を伝えると、彼の顔色がサッと曇りました。

ぜんそくだから犬は飼わない方がいいです。飼うとしても完全に外飼育か、室内でも犬専用の部屋を設けるか。室内で一緒に過ごしたら、ぜんそくが悪化する可能性があります」
というご意見でした。

すでに私の脳内では、犬との幸せな生活が始まっていたので、
「イヌアレルギーがないのにですか?私も仮にイヌアレルギーがあったら再考したと思いますが、なかったのでホッとしたんです。」
と答えると、

「今はなくてもアレルギーは急になるものなんです。医師としてあなたの症状も見てきて、今すでに飼っているならまだしも、これから犬を飼うのは勧められません。」
とおっしゃいました。

喜んだのも束の間、犬との生活に影が差した心地がして、帰り道はすっかりしょんぼりしていました。


その後、ぜんそくの症状は楽になっていき、息苦しいながらも何とか通勤できるようになったため、復職しました。

今思い返せば、この時も仕事を続けたい一心でかなりの無理をして出勤していました。

仕事中に少し動くと激しい呼吸になり、身体をしばらくの間完全に静止しない限りいつまでもおさまりません。
会話すると苦しいので雑談などは一切せず、必要最低限のお返事以外は不自然なくらい無口で過ごしました。
夜の発作がある日も多く、不眠かつ疲労がピークに達したまま朝を迎えては、そのまま出勤しました。
まるで執念で仕事をしていたような感じです。

以前、医師にハッキリ忠告されたというのに、このレベルでまだ気づかないどころか、これでも前よりは楽になっているから大丈夫と本気で思っていたことに、自分でも呆れてしまいます。
それでも当時は大真面目でした。


犬を迎えるにあたり、私は当初、保護犬を引き取ることを考えていましたが、医師に言われたことが気になり初動を渋っていました。

そんなところへ突然、
「いい犬がいたから決めてきた」
と義父より連絡がありました。
思いがけない事後報告でした。

一瞬戸惑いましたが、いい意味で強引な流れのご縁をいただいたと受け入れ、この柴犬メスを迎えることにしました。
(この柴犬さんのことは改めて紹介したいので別記します。)


4月になり、柴犬さん(3ヶ月)との新生活が始まりました。
ぜんそくでは難儀していたものの、念願の犬さんとの生活が叶い、心は喜びと希望に満ち溢れていました。



じっくりお付き合いください、6へ続きます。

もう嘘はつかない

私は長いこと自分の話をすることが大の苦手でした。
なぜならたくさんの嘘をつかなければならなかったからです。

ありのままの自分を明かせば、仲良くなりたい相手が私を恐れて離れて行ってしまうのでないかという恐怖が常にありましたから、相手を怖がらせないよう驚かせないように、当たり障りのないことを最小限だけ伝えてやり過ごしてきました。

そんな時はいつも、また嘘をついてしまった罪悪感と、本当のことを言えない悲しみが心を埋め尽くしました。

この人生で、他者との感覚の違いに気づき、初めて嘘を意識したきっかけは新生児の頃です。

母が、彼女の友人に産まれたばかりの娘を見せながら、娘の排泄や滑稽な動きについて話していました。
それを私は母の腕の中で、ただただ恥ずかしく感じながら聞いていました。

なぜこの女性に私の排泄などの話をしているの?
私がここで聞いているというのに!?やめて!!

話が止まないならせめてこの場から離れたいと思い、全力で移動を試みましたが身体が異常なほどに重く、全く思うように動きません!
このような感じです…麻酔を打たれて身体にはほとんど力が入らないというのに意識だけは明瞭で、ただそれを伝える術がなく、周りの人はそのことに気づいてくれず、こちらを見て笑っており、されるがままになるしかない状況を想像してください。
最後は移動も諦め、混乱していたたまれない気持ちのまま母の腕の中にいるしか術がありませんでした。

あらためて彼女らの様子を見ると、まるで私がここにいないかのように私の話をしています。
しかし彼女らは何度も私に微笑みかけ、じっとこちらを見つめたり手や足にも触れてきます。

そこで気づきました。

彼女たちは、この会話を私が理解できないと思っているのだと。


その日から、聞いて嬉しいことも嫌なことも、まるで何も聞こえていないかのように振る舞いました。
これは想像以上につらいことです。
自分が本当に何一つ理解できなければどんなにいいかと感じました。

せめて、どなたかが、一度でも
「あなたは私の話していることが分かる?」
と尋ねてくれたなら。
まだ言葉は話せなくても、閉じこめられたように身体が動かせなくても、何とかして「はい!」と伝えたのに…。


その頃は、自分のいる世界(家の中のこと)のあらゆるものが荒々しく感じられ、不快な刺激が多すぎました。

テレビやラジオから発せられるあらゆるもの、家中をひっきりなしに飛び交う目ざわり耳ざわりな電波、トイレの水洗音、洗濯機や掃除機など家電の騒音、電話……
自然のものから切り離された人工物ばかりに囲まれた不自然な空間は、とにかく異様で全くくつろげませんでした。

そんな中で唯一落ち着けたのは、母が好んで聴いていた、レコードから流れるクラシック音楽だけでした。


そんなままならない新生児〜赤ちゃん時代にも、飛び抜けてステキなことが2つありました。

1つは新生児の頃、ひ孫と初対面した曽祖父に抱っこされた時のことです。
彼からの言葉はありませんでしたが、慈愛に満ち溢れて温かく優しい彼の魂が、心細くてたまらない私の魂を包みこんでくれたように感じました。
誕生以来、初めて安心できた瞬間です!
嬉しくて懐かしくて涙が溢れました。(実際にこの時私は大泣きしたと後に母から聞かされました。)
このままいつまでも彼に抱かれていたいと強く願いました。

高齢だった曽祖父は、その後まもなくして入院し数年後亡くなったので、彼に抱かれたのはその一度きりですが、今でもあの時の絶対的な安心感を忘れることはありません。


2つ目は弟の誕生です。
私は1歳半になっていました。
私と違う浅黒い肌の色、あたたかく柔らかい身体、ぷくぷくとした手足、透明な優しい瞳、あどけない仕草、可愛らしい声…彼の何もかもに夢中になりました。
これほどまでに愛しい存在がいるのか!と心底驚き、自分をこんな気持ちにさせてくれた弟が大切で可愛くてたまりませんでした。
彼を見つめていると、愛しさで胸がいっぱいになり涙が溢れました。
そして今後どんな嫌なことからも、私が守ってあげようと心に決めました。


ここまでを読んで、あなたはどう感じられますか。

新生児が日本語を理解できるはずがない?
新生児に恥ずかしいという感情があるはずもない?
新生児が一度きりの抱擁を覚えているはずがない?
一歳半の赤ん坊にそんな理性があるはずはない?

それとも…♪
私も同じ!!と喜んでいらっしゃいますか?


私の体験と、一般的に認識されている情報、あるいはあなた自身の体験や記憶とはあまりに違いますか?
私はその時に自分が着ていた服の詳細まで覚えており、母に確認したため、それが新生児の頃であったと符合しました。

これを信じて欲しいとは申しません。
私自身、なぜ同じようなお仲間に出会えないのだろうと常に心細く思い、ついには私の記憶ちがいか幻想だったのかと疑ったことさえあります。
人に信じてもらえないことよりも、自分を信じられなくなることは最も悲しいことです。

ここに書いたことは、これまでずっと誰にも信じてもらえないだろうと諦め、誰にも明かさずに嘘ばかりついてきた私の真実です。
これからの人生、もう嘘をつくのはやめました。


また少しずつ私の体験を分かち合いますね。
私を信じてくださるあなたに心から感謝します。

今日も読んでくださってありがとう。

ぜんそくが教えてくれたこと4

重度のぜんそく患者だった私は、現在、一切の薬を摂っておらず通院もしておりません。

ぜんそくの症状である呼吸困難、胸痛、胸の圧迫感、絶え間ない咳などから解放され、健康を取り戻しています。

ささやかな私の体験談が、どなたかの希望になることを願ってやみません。




それでは続きにまいります。


セレベントは朝夕2回吸入する薬です。

これを摂り始めて3日目に、何ヶ月も胸を圧迫し続けていた重たい石のような感覚が消え、胸の痛みが大幅に和らぎました。


深呼吸ができる!息を吸うと酸素が入ってくる!


症状が出る以前は当たり前だったことが、うっとりするような気持ちのよい感覚として感じられ、呼吸ができる喜びに胸を打たれました。


その後、気管支喘息の診断が下った私は、本格的な治療に入りました。


ぜんそくの重症度レベルは大きく分けて4段階あります。

発作の強さ、その頻度、夜間症状などを総合したもので、ここでは誰にでも分かりやすいような表現にしますが、

軽度 (発作は時々あるが軽く短い)
軽度2 (発作はやや多いが毎日ではない)
中等度 (発作は毎日、時々日常生活に支障あり)
重症度 (発作は毎日、日常生活が制限される)
の4段階で、

私は重症度の患者と診断されました。



「絶対に風邪をひかないように注意してください」


医師から念をおされ、その頃から毎日マスクを欠かさない生活が始まりました。(ぜんそく患者にとって風邪は死活問題です)

処方された薬を毎日摂っていくと、セレベントを最初に摂った時のような感動的な大変化はないものの、徐々に確実に呼吸が楽になっていくのがわかりました。

夜間の発作も少しずつ減って行ったため、このまま治療を続けていけば治る♪と私はすっかり楽観的な気持ちになっていきました。


最初に病院を訪れたのは11月、まだ暖かい日もある頃でした。その後、ぜんそく患者には厳しい冬がやってきました。

朝晩の冷え込みが激しくなるにつれて、少なくなっていたはずの発作や呼吸困難、胸部のあらゆる不快症状が、薬を摂っているにも関わらずそっくり戻ってきました。

薬の量を増やしても効かず、薬を変更しても効かず、新しい薬を追加しても全く楽になりませんでした。
あまりに毎日苦しいので、通院する体力も惜しかったのを覚えています。





発作を経験して感じたことですが。


まずは脳が、
「酸素が足りません。呼吸をしてください。」
としつこく警告し続けます。

酸素が足りなくなると自然と心も落ち着きがなくなり、同時に怖いという気持ちが起こります。

ところが呼吸しようにも気道が細く閉じてしまっていて一向に酸素が入ってきません。

次は筋肉で肋骨を強制的に動かしての呼吸を試みます。

いわゆる深呼吸の動きを、大急ぎで行うような感じで、吸う時も吐く時も、全力で素早く筋肉を動かすのです。

これで40〜60分はがんばれます。

ところがついに筋肉が疲労して痛み出し(これが思わぬ激痛!)動きが悪くなってきます。

このあたりで発作が終わってくれると助かるのですが、そう甘くはいきません。



心身ともに疲労困憊して、かつ酸素が足りなくなると…




不思議と少しずつ気持ちよくなってきます♡




心が穏やかになり♡




もう十分かな♡という平和な感覚が訪れます。




半分逝ってますね(笑)


ただ、ぜんそく患者の発作による窒息死や溺死はもっとも苦しい死だ、という情報をよく目にしたのですが、こういった体験を通して、本当にそうなのかしら?という疑問が湧きました。


先日、以前に溺死しかかった友人とこの話でお互いに共感できたので、ますますその感覚を強めたところです。

ところが私たちは永遠の魂を信じる者同士なので、もしかしたらそこが最後の平安に影響しているのかもしれませんが、こればかりは確かめようがありませんね。


いずれにしても私の場合、長く苦しい発作の先にはいつも平安が訪れたので、一番つらい状態を耐えている時でも、ここを乗りきれば最後は楽になれる、という希望があったことは確かです。



なかなか進みませんが、5に続きます。

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両親に会いたい1

この記事は被虐待当事者にフラッシュバックが起きる可能性があります。


また非当事者であっても、想像以上のストレスを受ける可能性があります。


少しでも不快に感じられましたら、すぐに閲覧を中止してご自分をお守りください。


この記事はずっとここにありますので、あなたが安全な時にいつでも読むことができます。


どうぞご無理をなさらず、どなたもご自分の安定した感覚、十分に安全なスペースを最優先になさってくださいね。







私は約10年間、両親と連絡を断っていました。



彼らが私に与えたさまざまな行いをおぞましく感じ、


声を聴くのも恐ろしく、


メールや手紙で文字を読むだけで体が震えました。


彼らの名前を口にするだけで、


胃のあたりに真っ黒な墨汁が広がるような気分になり、


悪夢を見ては絶叫して目覚めました。





両親と断絶する以前の私は、親孝行の優しい娘を演じていました。


もちろん演じている自覚は毛頭ありませんでしたが、


今思い返せば、


ものすごく歪んだ仲良し家族の娘を全力で演じていたのだと思います。





その頃の私は、頻繁に両親を自宅に招き、


毎月のように彼らの髪を切り(髪を切るのは私の特技)、


全身のマッサージをし、手料理をふるまいました。


記念日には心を込めて真剣に選んだものをプレゼントし、


彼らを連れて何度も大好きな山登りに行きました。


一生の思い出を作ろうと憧れの山、富士山にも両親を励ましながら共に登りました。




私は両親が大好きでした。





彼らとの関係断絶を自ら決断したとき、


みなさんが生きている明るい笑い声あふれる世界から、


1人だけ真っ暗闇で音もない冷たい世界に切り離されたような途方もない寂しさと、


ここでがんばっても私の助かる未来は訪れないという、


諦めに似た魂が凍えるような孤独を感じました。






私はそれまで両親に反抗したことのない娘です。


彼らに従うことが当然の環境でしたし、


思春期の反抗期などとも無縁でした。


(20歳で一度、父と対決した事がありましたが、いずれ別記します。)


ですからこの私の意思表示は、


両親にとって非常に腹立たしく忌々しいこととなり、


しばらくの間は手紙やメールで一方的に責められておりました。




もう二度と両親と会えないかもしれない、


いいえ会いたくない!と思う反面、


レストランや公園で楽しそうに談笑する家族や、


腕を組んで仲睦まじく歩く母娘を見かけるたびに、


強烈な懐かしさで狂おしくなるほど胸の中をかき乱され、


必死で涙をこらえました。



「ごめんなさい。私が悪かったの。」


いっそのこと両親に謝ってしまえば、


何もかも元通りになるかもしれない、


今ならまだ間に合うかもしれないと


何度迷ったかわかりません。







私は、両親から愛され大切に育てられた娘という、



ありもしない幻想のかけらを探しつづけていました。






2に続きます。

名前

あなたはご自分のお名前がお好きですか。



私は自分の名前(本名)が大好きです。



私の名は祖父が名付けてくれました。


日本人なら誰でも読め、意味が分かり、呼びやすい単純明快な名前です。



今は大好きな名前ですが、昔はどうしても好きになれませんでした。


私は「ゆ」「あ」「ま」「さ」などの柔らかい音が好きで、


女の子の名前になぜこんな固く鋭い響きの音をわざわざ選んだのかと不満でした。


また自己紹介に載せたような境遇だったため、


祖父が幸せを願ってつけたであろう名前の意味が、私にふさわしいとは全く思えず、


自分で名前を書くたびにとてつもなく惨めな気持ちになることが何よりも辛かったからです。


ですからいつも他人の名前のように扱い、よそよそしい気持ちで接してきました。




去年の秋、これまでの自分の人生を完全に受け入れられた時に、私はようやく自分に与えられた名前を心から受け入れることができました。



一音一音をゆっくり声に出して、その美しい響きを味わいながら、何度も何度も自分の名前を呼びました。




すると、今までは霞んで遠くに感じていた名前が、眩しいほどの輝きと存在感をともなって自分の中に入ってくるのを感じました。




名前を呼ぶたびに喜びの涙が溢れて、全身に力がみなぎってくるのを感じ、





この名前はまさに私自身である!!






と生まれて初めて実感することができました。





名前には強い力があると感じます。



一音一音に宿る力。


一音一字が辿ってきた壮大な物語の力。


漢字、平仮名ともに、その名前の意味の力。




その名の持ち主が、心から自分の名前を受け入れ愛したとき、名前の持つ本来の力が発揮されるのでしょう。



名前を自書するたび。


名前を名乗るたび。


名前を呼ばれるたびに。




私たち日本人は、親しい間柄であっても苗字で呼び合うことが礼儀にもなりえますが、


私はいつでも名前で呼ばれたいと願います。


私にとって名前を呼ばれることは、失礼どころか喜びでしかありません。


また私がどなたかのお名前をお呼びする際には、


その方の魂に語りかけるように大切にお呼びするよう心がけています。





あなたはどんな美しいお名前をお持ちですか。






どうぞあなたの優しい声で、


ご自分自身に向けてお名前をお呼びください。


あなたに与えられたそのお名前は、


あなたに愛され、優しく呼ばれるのを待っています。







今日も読んでくださってありがとう。